制度としての優しさ、持続可能な配慮という視点

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「誰も取り残さない社会」を目指した結果、
社会はなぜ動きづらくなるのか。
優しさと制度のあいだに生じる緊張関係を、
(浅慮ではありますが)
いくつかの具体例から考えてみました。

はじめに

私たちは、長い時間をかけて(言うほど長い時間ではないことは後述します)
「少数意見を尊重する社会」
「誰も取り残さない社会」
を目指してきました。

この方向性そのものに、異論がある人は少ないと思います。

困っている人がいれば支えたい。
声の小さい人の意見が、かき消されないようにしたい。

どれも、人として自然な感覚です。

ただ一方で、近年、こんな言葉もよく聞かれるようになりました。

  • 制度が複雑すぎる
  • 行政が回っていない
  • 何をしても不満が出る

一見すると矛盾しているような、
この二つの感覚は、実は同じ場所から生まれています。

優しさは、制度になると性質が変わる

個人の優しさは、柔軟です。

相手を見て、
事情を聞いて、
「今回はこうしよう」と判断できる。

しかし、これが制度としての優しさになると、性質が変わります。

  • 誰にでも適用できる形にする必要がある
  • 恣意的にならないよう基準が必要
  • 説明責任が発生する

結果として、

  • ルールは細かくなり
  • 例外が増え
  • 手続が重くなる

ここで起きているのは、
優しさの劣化ではなく、優しさの形式化です。

配慮が積み重なった結果、現場で起きていること

制度として配慮を積み上げていくと、必ず「コスト」が生じます。

  • お金
  • 人手
  • 判断の時間
  • 調整の労力

たとえば行政の現場では、

  • 書類の説明が増える
  • 一つの判断に要する時間が伸びる
  • 「前例」「公平性」をより強く意識せざるを得なくなる

結果として、誰かを大切にするために作られた制度が、
全体としては動きづらくなるという現象が起きます。

ここに、善悪はありません。ただ、構造上そうなりやすい、という話です。

具体例①:夫婦別姓をめぐる議論

夫婦別姓の議論は、
「個人の尊重」という点で、非常に象徴的なテーマです。

  • 改姓による不便や不利益をなくしたい
  • アイデンティティを守りたい

この主張自体は、十分に理解できます。

一方で、制度として導入する場合、

  • 戸籍制度との関係
  • 家族単位での管理
  • 各種行政システムの改修

ここで対立しているのは、
賛成 vs 反対ではなく、

  • 理念としての正しさ
  • 制度としての持続可能性

この二つの緊張関係です。

どちらかが「悪」なのではありません。

具体例②:議員定数削減と少数意見

議員定数削減の議論でも、同じ構造が見えます。

削減に賛成する人は、

  • コスト削減
  • 意思決定の迅速化
  • 政治不信の解消

を期待します。

一方、反対意見としては、

  • 少数意見が拾われなくなる
  • 地域の声が届きにくくなる

という懸念があります。

ここでも問題は、
「少数意見をどこまで制度として保障するか」
という線引きです。

少数意見を尊重することと、
すべての意見を制度上、同じ重さで扱うことは、
必ずしも同じではありません。

具体例③:選別が必要になる福祉や支援制度

福祉や支援の分野では、この問題はさらに顕著です。

  • 本当に困っている人に届けたい
  • でも、すべての要望には応えられない

そこで、

  • 所得制限
  • 年齢制限
  • 条件付き給付

といった「線引き」が生まれます。

この線引きは、しばしば
「冷たい」「配慮が足りない」
と批判されます。

しかし実際には、
線を引かない制度の方が、先に壊れる
ことも少なくありません。

ここで、福祉の歴史について少しだけ

ここまで制度の現場の話をしてきましたが、
ここで一度、少し視点を引いてみます。

私たちが当然のように享受している「福祉国家」という考え方は、
実は、歴史的に見るとそれほど古いものではありません。
(例外として、古代ローマはここでは取り上げません)

近代国家の初期には、
国家の役割はもっと限定的に考えられていました。
いわゆる「夜警国家」と呼ばれる考え方です。

夜警国家とは、
治安の維持や防衛など、
国民の生命を守ることを主な目的とする国家像です。

極端に言えば、
「最低限の安全だけは守るけれど、
それ以外はできるだけ口を出さない」
そんなイメージです。

その分、
福祉国家に比べれば、
国家が負担するコストは少なくて済む
――と言われることが多いです。
(実際には、そんなに単純な話でもありませんが。)

これに対して、
福祉国家は、
国民の生命だけでなく、

健康
生活
財産
機会の公平

といったものまで、
幅広く保障しようとします。

そして当然のことながら、
保障の範囲が広がれば広がるほど、
制度は細かくなり
判断基準は増え
例外への対応が必要になり
結果として、
とにかくお金がかかる仕組みになりがちです。

ここで大事なのは、
どちらが「正しい」「間違っている」という話ではありません。
国家がどこまで関与し、
どこまでを個人や社会に委ねるのか。

そのバランスを、
時代ごとに調整してきた結果が、
今の福祉国家だということです。

日本の場合、戦後の日本国憲法において、
国が国民の生活に積極的に関与する方向性が示され、
それを背景に、国民の声や時代の要請を受けながら、
さまざまな福祉制度が積み重ねられてきました。

以下、話を戻しまして

具体例④:同性婚をめぐる違憲・合憲裁判

近年、同性婚を認めない現行制度について、
各地で違憲・合憲を争う裁判が続いています。

当事者にとっては、

  • 法的に家族として認められない不利益
  • 将来への不安
  • 社会から排除されているという感覚

いずれも、非常に切実な問題です。

一方で、裁判所が向き合っているのは、

「気持ちとして理解できるか」
ではなく、

  • 現行憲法の枠組みの中で
  • どこまでを司法が判断し
  • どこからを立法に委ねるのか

という、制度としての線引きです。

ここでも対立しているのは、

人としての共感

制度としての判断

であって、
当事者の尊厳そのものを否定するかどうか、
という単純な話ではありません。

 

なお、私自身、もし当事者の立場に置かれたら、
このような記事を今と同じ温度感で平然と書ける自信はありません。

分かれ道で複数の選択肢を前に考え込む会社員のイラスト

「線を引くこと」は冷たさなのか

ここで一つ、立ち止まって考える必要があります。

• すべてを保障すること
• 長く続けられること

この二つは、常に両立するわけではありません。
線を引くという行為は、
誰かを切り捨てるため
ではなく、
“制度を続けるための判断”
である場合も多いのです。

持続可能な配慮という考え方

「持続可能な配慮」とは、

配慮しない、という意味ではありません。

優しさを減らすという話でもありません。

続けられる形で配慮する
という視点です。

• 全員に最大限、ではなく
• 社会全体が耐えられる形で

その調整を、どこで、誰が、どう行うのか。
ここにこそ、本当の難しさがあります。

答えを急がないために

このテーマには、明確な正解はありません。

ただ一つ言えるのは、
「優しさ」や「配慮」を語るとき、
制度としてどう成り立つかを考えることは、
冷酷さではなく、責任だということです。

全てを守ろうとして、
結果的に何も守れなくなる社会にしないために。

この視点だけは、
忘れずに持っていたいと思います。

ちなみに、そんなことを書いている私自身、
昨日も母親から
「ごみ出し一つしてくれないのね」
と言われたばかりです。

本記事は、特定の思想や信条を前提とせず、制度の在り方について整理する目的で執筆しました。
表現上の不適切な点等がございましたら、適宜見直してまいります。

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